経歴のご紹介

UnsplashのÜmit Yıldırımが撮影した写真

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リーマンショックがもたらしたもの

Ryan McGuireによるPixabayからの画像

学生時代は自動車工学を専攻し、高校卒業後は、地元の石油業界に携わりました。

そして私の記憶では、私が社会人となった2002年当時は、派遣業界がとても盛んでした。

今では派遣業の求人情報はあまり見なくなりましたが、少なくとも当時の私の地元では、地元企業に就職するよりも、首都圏での工場勤務などで、高収入案件がたくさんありました。

その中でも、特に電子部品や自動車などの製造業の求人情報が、毎日のように更新されていました。

私は、もともと自動車の製造に興味があったので、2008年の夏、自動車製造業界に転職しました。

その直後にリーマンショックが起こります。

この年は、全国的に派遣切り年越し派遣村などがトピックとなり、私と同世代以上の方は、少なからず影響を受けた方も多いでしょう。

私は、この影響をまともに受け、「契約期間満了」という形で、転職からわずか半年で失業しました。

行列のできるハローワークよりたった一つのご縁

aykapogによるPixabayからの画像

2009年春、私は新たな仕事探しのために、地元のハローワークに通っていました。

その時の異様な光景は忘れもしません。

ハローワークには、想定外で突然職を失ったと思われる求職者達が詰めかけ、敷地に入れず、道路にはみ出るほど、長蛇の列ができていました。

私もその中の一人でした。

なかなか仕事が決まらず、日雇いの仕事でなんとか食い繋いでいました。

そのような生活になって、半年ほど経った頃、ご縁あってある方から声がかかりました。

介護タクシーの運転手をしないか?」と。

声をかけて下さったのは、同一敷地内に複数の介護施設を経営されている社長さんです。

この一言が、私の今後の人生を大きく変えました

介護タクシーが利用できる訪問介護(ヘルパー)事業所

M. RothによるPixabayからの画像

この施設では、同一敷地内にデイサービスやショートステイ、訪問介護(ヘルパー)事業所などが併設されており、介護タクシーは訪問介護サービスの1つでした。

訪問介護と聞くと、利用者のお宅に訪問し、オムツ交換や入浴介助、食事の支度やお掃除などをイメージされると思いますが、その他にこの事業所では、「通院介助」というサービスも行っていました。

それは、どのようなサービスかというと、

1.病院受診のための身支度を行う。

2.車椅子に乗ったまま移動ができる送迎車に乗って、病院に向かう。

3.院内の見守り、トイレ介助、受診の付き添いなどを行う。

4.受診後、送迎車で自宅に帰宅。(居室まで)

といった流れです。

当時の私は、自動車業界を中心とした求職活動をしていたので、「介護」については、全く無関心でした。

そのような私には、介護業界は未知の領域で、どのような仕事なのか想像もつきませんでしたが、せっかく声をかけて下さったので、転職することにしました

ですので、私の介護業界での最初のお仕事は、介護タクシーの運転手としてスタートしました。

デイサービスで介護職員デビュー

Gundula VogelによるPixabayからの画像 

介護タクシーの運転手として介護施設に勤務するようになったものの、一般のタクシーと違い、依頼や希望はそんなに多くありません

ですので、依頼がない時は、併設するデイサービスで、介護職員として携わることになりました。

そして、このデイサービスでは、当時十数名いる職員の中で、男性職員は私一人でした。

また、利用者様の8割ほどが女性でしたので、直接的な身体介護や入浴介助の頭数にはならず、一番最初は、ホールの見守りや雑務といった、限定的なものでした

そもそも、介護について全く未経験で無資格なので、利用者様への介助どころか、接し方や関わり方も分からず困惑しました

今まで油臭い機械をイジり、汗臭い男性ばかりと一緒に働いていた私は、慣れるまでかなり戸惑いました

介護業界2年目で異例の管理職

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

在籍から半年ほど経った頃、施設の方から打診され、ヘルパー2級を取得することになりました。

私自身も、半年の間でだいぶ「介護」に慣れてきていたので、順調に資格を取得し、その後に訪問介護(ヘルパー)事業所へ異動となりました。

当時、この訪問介護(ヘルパー)事業所では、介護タクシーの需要も高まり、身体介護でサービスに入っている利用者さんが、定期受診のために通院も希望するというケースが増えていた時期でした。

この頃の私は、介護の魅力ややりがいを感じながら、日々目の前の利用者様に向き合っていました。

その姿勢を買われてか、介護業界に携わって、わずか一年足らずで、訪問介護(ヘルパー)事業所の管理者を任命されました。

私は調理が苦手なので、生活支援は行いませんでしたが、介護タクシー業務を行いながら、オムツ交換や入浴介助などの支援もさせて頂きました。

訪問介護(ヘルパー)事業所からショートステイへ

Jonas OgrefolnによるPixabayからの画像

その後は紆余曲折ありながら数年が経ち、組織体制の変更のため、ショートステイの管理者を任命されました。

当時から人手不足が深刻だったため、私は可能なかぎり介護職員の勤務体制に負担をかけないようにと、自分自身を介護職員の頭数に入れて、施設運営をしました。

特に最初の1年は、月に5回ほど夜勤も行いながら、管理業務に当たりました。

通常の夜勤は、「夜勤」「夜勤明け」「休み」の3日間を1サイクルとしますが、私の場合は、「夜勤」「夜勤明け」「日勤」が当たり前で、急な欠員が出ると日勤からそのまま夜勤という日も多々ありました。

当時の私は、家庭を顧みず、狂ったように働きました

まさに、典型的なワーカーホリックです。

今となっては、自分の身体と家庭を犠牲にした、当時のような働き方はできませんが、この時期の経験は、私の介護経験の基礎となり、貴重な財産となりました。

この時期に【介護福祉士】と【社会福祉主事】の資格を取得しました。

キャリアとプライドを捨て原点回帰

toodlingstudioによるPixabayからの画像

ご縁あって介護業界に携わるようになって、異例のスピードで管理職を任せられましたが、ある時、いち従業員の視点を見失っていることに気づきました。

いつの間にか私だけが「やる気」になっていて、他の職員たちが置き去りになっていました。

私は、自身の体を張る以外に手段を取らず、いちプレーヤーとして現場でケアに当たり続けました。

そして、他の職員たちの思いや声を聞かず、「自分にできることはみんなできる」と、自分個人のエゴをただ押しつけているだけでした。

私は、最後の最後まで、管理職(マネージャー)には成りきれませんでした。

完全に管理者失格です。

そのことに気がつき、私はこの施設を去る決断をしました。

そして、一度全てのキャリアとプライドを捨て、転職することにしました。

いち生活相談員として再スタート

次の施設は、介護予防に力を入れたデイサービスの立ち上げに、いち生活相談員として携わることになりました。

そこで介護予防の魅力に引き込まれました。

この時期の活動については、電子書籍にまとめておりますので、ご興味のある方はぜひお読み下さい。

そして…

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

2023年2月。

私の人生の新章がスタートしました。

これまでの経験は、私の中だけで留めておくのはもったいないと思い、全てさらけ出すことにしました。

これまでの人生の中で、何度挫折したかわかりません。

はっきりいって、数えきれないほど挫折しました。

ですが、折れた分だけ根は強く張り、それすらネタにして、今こうして記事を書いています。

これからの行動は全てチャレンジです。

きっとまたたくさん挫折します。

この先どうなるかは全くわかりません

でも、今から3年後くらいには、2023年以降の挫折経験も、笑い話ネタにできると信じて、前に進みます

最後に、今の私の原動力となっている一つの言葉で、この記事を締めくくります。

知・覚・動・考』(とも・かく・うご・こう)

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

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