ふと立ち止まる瞬間の、あの感覚
介護の仕事をしていると、ある種の場面が繰り返されます。
利用者の方が、ふと遠くを見るような目で「もう歳だから」とつぶやく。それに対して、どう返せばいいか、一瞬言葉を探してしまう。「そんなことありませんよ」と言えば嘘になる気がして、かといって黙っていれば冷たい気がします。
介護の現場にいる人であれば、似たような経験が一度はあるのではないでしょうか。
「老いる」ということを、どう受け止めればいいのか。それは利用者の方だけの話ではなく、支援する側の自分自身にも問われていることでもあります。
この記事は「答えを教える記事」ではありません。すでにある答えに、なぜ辿り着くのかを紐解く記事です。
老いをめぐる言葉は、世の中にたくさんあります。ですが、その言葉が腑に落ちるかどうかは、受け取る側の「前提」によって大きく変わります。今日はそのことを、一緒に考えていきたいと思います。
過去のXポストを全文
私は過去に、このようなポストをしました。
このポストは、介護の現場で働く方々へ向けて書いたものです。ただ、反応をいただくなかで、「介護とは関係なく刺さった」という声もありました。
当時、私はこの言葉を「知っていた」のではなく、ある出来事を通じて「受け取った」という感覚を持っていました。そのことが、このポストを書いた直接のきっかけでした。うまく表示されない場合がありますので、その場合は以下のポスト全文をご確認ください。
「老いることは生きることである」これは96歳のあるカナダ人老哲学者が語った言葉として、介護に携わる方であれば一度は耳にしたことがあると思います。若い頃は”老い”をイメージしにくいですが、いつかは誰しも実感する時がやってきます。だから言葉を変えると「人生は今日が一番若い」となります。
なぜこの言葉に”引っかかる人”がいるのか
「老いることは生きることである」という言葉は、一見すると当たり前のことを言っているように聞こえます。
だから最初に聞いたとき、「そうですね」と軽く流してしまう人も多いかもしれません。知識として受け取ることは、それほど難しくない。ですが、この言葉が日常の感覚と結びついたとき、初めて何かが動く気がします。
「知っている」と「使っている」の間には、大きな溝があります。
たとえば、利用者の方が「もう歳だから、何もできない」と話すとき。その言葉に対して、「老いることは生きることですよ」と返しても、それは言葉を渡しているだけで、思考を共にしているわけではありません。言葉だけを知っていても、それが相手の文脈に重なるかどうかは別の話です。
多くの人がこの言葉を実践できない理由は、能力の問題ではありません。「老い」を自分ごととして想像する機会が、日常の中でほとんどないからだと思います。
若い頃は、老いるということを頭では理解していても、体感として近づいてきません。介護の現場にいる方でさえ、「老い」を目の前にしながらも、それを自分の未来と重ねることは難しい。環境として「老い」に触れていても、思考として「老い」と向き合う時間はなかなか取れないのが現実です。
それが、この言葉が「知っているけれど、腑に落ちない」状態を生む構造的な理由だと、私は考えています。
この考えに至った背景|体験と葛藤
私がこの言葉と本当に向き合ったのは、ある利用者の方との会話がきっかけでした。
その方は80代後半で、穏やかな方でした。ある日、「私はもう長くないからね」と静かに話されたとき、私はとっさに「そんなことないですよ」と返してしまいました。
後になって、その言葉がずっと引っかかりました。
「そんなことないですよ」は、励ましのつもりでした。ですが、その方が言いたかったのは「だから今日が大事」という感覚だったのではないか、と後から気づきました。私は相手の言葉を、否定してしまったのかもしれない。
それ以来、「老い」をどう捉えるかについて、自分なりに考えるようになりました。
老いは、失っていくことではないのではないか。積み重ねてきたものが、形を変えていく過程なのではないか。そう考えたとき、「老いることは生きることである」という言葉が、単なる慰めではなく、ひとつの思想として見えてきました。
うまくいかなかった経験があったから、この言葉が単なるきれいごとではなく、問いとして残り続けています。
なぜ私は、そう考えるのか
「人生は今日が一番若い」という言葉は、「老いることは生きることである」を別の角度から言い換えたものです。
私がこの言葉に至ったのは、「老い」を時間軸の終わりではなく、「今この瞬間の地点」として見る思考から来ています。
判断の基準としては、こう問うようにしています。
「今日という日を、どちらの方向から見ているか」
未来から振り返ったとき、今日は「一番若かった日」になります。過去から積み上げてきたとき、今日は「最も多くを経験してきた日」になります。どちらの視点も、今日を「まだこれから」として捉えることができます。
あえて選ばなかった考え方もあります。
「老いを受け入れる」という表現は、よく使われます。ですが、「受け入れる」という言葉には、どこか諦めに近いニュアンスが含まれることがあります。私は「老いと共に生きる」ではなく、「老いることそのものが生きることだ」という方向に思考を向けたかった。
こう考えると、介護の場面でのかかわり方も変わって見えます。利用者の方が「もう歳だから」と言うとき、それは終わりへの言葉ではなく、今日もここにいるという言葉として受け取ることができます。
あなたが”自分の現場”に持ち帰れる問い
以下の問いを、明日の現場や日常の中で、静かに持ち歩いてみてください。行動を促したいわけではありません。ただ、問いとして手元に置いておくだけで、見え方が少し変わることがあります。
- もし「老い」が失うことではなく、積み重なることだとしたら、今日の自分はどう見えるだろうか。
- 利用者の方の「もう歳だから」という言葉を、どんな前提で聞いているだろうか。
- 自分が老いるとき、今日の自分にどんな言葉をかけてほしいだろうか。
- 今の判断は、「老い」をどんなものとして捉えた上でなされているだろうか。
- 「今日が一番若い」と感じるとしたら、今日何をしているだろうか。
問いに答えを出す必要はありません。ただ、問いを持って一日を過ごすことで、見えてくるものがあるかもしれません。
今日から新たな一歩を”考える”
この記事をここまで読んでくださったあなたは、きっと何かしら共感や気づきを得てくださったと思います。大切なのは、その気づきをすぐに行動へ変えることではありません。まずは、日常の中で立ち止まり、考える時間を持つことです。
介護の現場は、時間的にも精神的にも余裕がないことが多いです。その中で「思考する時間」を持つことは、贅沢に聞こえるかもしれません。
ですが、思考することは、行動を止めることではありません。むしろ、思考の質が変わると、同じ行動でも意味が変わります。利用者の方への声かけひとつ、表情ひとつが、少しだけ変わることがあります。それは技術ではなく、前提の変化から生まれるものだと思います。
「老いることは生きることである」という言葉を、介護の哲学として暗記する必要はありません。ただ、今日誰かと話すとき、その言葉が頭の片隅にあるかどうかで、聞き方が少しだけ変わるかもしれません。
ポストを「知って終わり」にしない
冒頭で、「もう歳だから」という言葉にどう返せばいいか迷う場面を書きました。
その迷いは、答えがないから生まれるのではないと思います。「老い」をどう捉えているかという前提が、まだ自分の中でぼんやりしているから生まれるものかもしれません。
「老いることは生きることである」という言葉は、利用者の方へ伝えるためだけの言葉ではないかもしれません。それは、支援する側の自分自身が、老いと生きることをどう見ているかを問い直す言葉でもある気がします。
あなたにとって、「老い」とはどんな言葉でしょうか。
その問いに、今すぐ答えを出す必要はありません。ただ、この記事を読んだ後で、少しだけ問いが鮮明になっていたとしたら、それで十分だと思います。
おわりに
この記事では、私自身が過去にX(旧Twitter)でポストした内容を、改めて深掘りしました。当時は伝えきれなかった価値観やものの見方が、あなた自身の思考を整理するヒントになれば嬉しいです。
「老いることは生きることである」という言葉を最初に知ったとき、私はそれを美しい言葉だと思いました。ですが、その言葉が自分の経験と重なったとき、初めて「思想」として受け取ることができた気がします。
言葉は、知識として持つだけでは動きません。体験と結びついたとき、初めて自分の言葉になります。この記事が、そのきっかけのひとつになれれば幸いです。
この記事でお伝えしたことを、簡単に整理します。
- 「老いることは生きることである」という言葉は、知識として「知っている」と、思考として「使っている」の間に大きな差がある。
- 多くの人がこの言葉を実感しにくい理由は、能力ではなく、「老い」を自分ごととして想像する機会が少ない環境的・構造的な問題にある。
- 「人生は今日が一番若い」という言い換えは、老いを終わりではなく「今日という地点」として捉え直す思考から生まれている。
- 介護の現場でこの思考を持つことで、利用者の方の言葉の受け取り方が変わる可能性がある。
現在は『毎日1ポスト』を目標に、毎朝6時頃に発信しています。最新の気づきや学びはXでリアルタイムに発信していますので、ぜひ気軽に覗いてみてください。(@slw_abe)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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